シリーズ「阪和電鉄開通90周年記念 和泉に電車がやってきた」第4回
第4回 南海鉄道による阪和電鉄の合併(最終回)
前回では、阪和電鉄による信太山地域の開発について紹介しました。今回は最終回で、南海鉄道による阪和電鉄の合併について紹介します。
阪和電鉄は当初こそ赤字に苦しんだものの、沿線開発や合理化で徐々に経営状況が改善し、乗客も増えて株主配当金を出せるまでになります。ですが、徐々に戦争の影が阪和電鉄にも忍び寄ってきます。
昭和12年(1937)7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は長期化し、国家の人的・経済的資源をすべて戦争につぎ込むことが求められました。それに伴い昭和13年(1938)8月に施行された陸上交通統制法により、全国各地で中小鉄道、バス事業者の経営統合が行われるようになります。
阪和電鉄も例外ではなく、昭和15年(1940)7月ごろから競合する南海鉄道への合併が取り沙汰されるようになりました。以下のような当時の新聞記事があります。
大阪朝日新聞 昭和15年7月17日 朝刊
大阪朝日新聞 同日夕刊記事
この2つの記事から、紀勢西線の全通に伴い大阪天王寺から和歌山県の新宮まで直通列車を走らせるために南海と阪和の合併に国が乗り出したことがわかります。また、鉄道省がいずれ阪和電鉄を買収しようとしたが、大蔵省が買収費用を賄うための起債を許可しなかったためできなかったという話も載っています。同じ日の夕刊では、南海と阪和の合併による株式価値について、南海株10株に対し、阪和株8株以上という条件が出てきました。
さらにこの2日後、より詳細な合併条件が新聞記事に出てきます。
大阪朝日新聞 昭和15年 7月19日
これによると、17日の夕刊の記事の通り阪和株10:南海株8の比率で交換すること、南海は阪和株主に120万円の交付金と阪和役員及び従業員に100万円を限度とした解散手当を交付すること、12月1日に両社が合併すること、阪和の従業員は合併に伴うリストラ無く全員現給のまま南海で雇用するという条件が南海と阪和の間で決まりました。
こうして昭和15年12月1日、以下の社告の通り阪和電鉄は南海鉄道に合併され、阪和電鉄の天王寺から東和歌山までは南海山手線と改称されました。戦前日本の私鉄で最速を誇った阪和電鉄の歴史は、こうして幕を閉じました。
大阪朝日新聞 昭和15年12月1日 南海社告
南海山手線となった旧阪和電鉄線ですが、昭和19年(1944)5月1日に国有化され、国鉄阪和線となりました。阪和葛葉駅は南海山手線時代に葛葉稲荷駅に改称されましたが、このときに北信太駅と改められています。
そして昭和62年(1987)4月1日に国鉄は分割民営化され、阪和線はJR西日本の運営に変わり、現在に至ります。
今回で連載を終わりますが、開通から90年が過ぎた阪和線は現在も和泉市民の貴重な交通手段として日々多くの人々を運んでいます。現在の和泉市域の近代化に果たした大きな役割も、見逃してはいけないものがあります。
シリーズ「阪和電鉄開通90周年記念 和泉に電車がやってきた」第3回
第3回 阪和電鉄による信太山地域の開発
前回では、阪和電鉄による和泉府中から東和歌山までの開通と経営状況、沿線開発について紹介しました。今回は、阪和電鉄が信太山駅・葛葉稲荷駅周辺で行った沿線開発と旅客誘致について紹介します。
信太村では、阪和電鉄開業時に村内に駅が設置されなかったため、村を挙げて駅の誘致に取り組みます。駅を誘致するため、村は阪和電鉄に500円を寄付します。これは阪和電鉄による信太村の不動産取得にかかる税制面の助成という側面もありました。これを受け、阪和電鉄は信太村内に駅を設置することになり、昭和7年(1932)2月2日、現在の北信太駅にあたる葛葉稲荷駅(同年中に阪和葛葉駅と改称)が開業します。
葛葉稲荷駅(年次不明) 千枝の荘経営地パンフレット(表)
阪和電鉄の本社内にあった大阪近郊土地株式会社は、葛葉稲荷駅周辺を「千枝の荘経営地」として分譲します。線路を挟んで広大な住宅地が開発されていたことがパンフレットの中面から分かります。また、左のチラシからは、開業記念に商品券が当たるクジが実施されていたことが窺えます。また、売約成立者には阪和電鉄の全線無料乗車券が進呈されました。
千枝の荘経営地分譲パンフレットとチラシ
なお、年月賦提供で千枝の荘経営地は分譲されました。これは現在の住宅ローンに近い性質のものです。大都市のサラリーマンが郊外に家を買いやすくするためのもので、大正末から昭和初期に各地で行われた郊外住宅地の分譲の際には広く年月賦払いの制度が取り入れられました。千枝の荘経営地は、昭和10年(1935)から阪和電鉄自身の手で、聖ヶ岡住宅地として売り出されることになります。
信太山駅は、和泉府中開業時から設置された駅です。信太山駅の山手に位置する黒鳥山一帯を黒鳥の立石土地部が、黒鳥の荘住宅地として分譲します。ここは現在の山荘町にあたる地域です。信太山駅から黒鳥山まで阪和電鉄の直営バスも運行されるようになります。売約成立者には、阪和電鉄の半年間全線無料乗車券が進呈されました。黒鳥の荘でも、千枝の荘と同じく売約成立者向けの商品券が当たるクジが行われていました。
黒鳥の荘分譲チラシ 阪和ニュース昭和7年11月10日号
また、阪和スヰートハウスという温泉付きリゾート施設や本格的なゴルフ場である信太山ゴルフリンクスも設置されています。これらの施設も人気を博しましたが、ゴルフリンクスは戦時中に不要不急施設とされ、撤去されています。跡地は大阪市が買収し、一部は現在大阪市立信太山青少年野外活動センターになっています。
阪和スヰートハウス 広告
信太山ハイキングコース
このほか信太山をめぐるハイキングコースも整備されます。このコースは葛葉稲荷駅を出発し、信太山地域の名所旧跡を回るもので、葛葉稲荷、聖神社、蔭凉寺、黒鳥山を経て信太山駅に至る5キロのコースです。
沿線の名物として、「信太山盆踊り」があり、阪和ニュースの昭和8年(1933)9月1日号では、「正に日本一の信太山盆踊り」という見出しが出ています。盆踊り当日には、各地から多くの人々が見物にやってきました。阪和電鉄は多数の来場者に対応すべく、終夜運転を実施しています。
阪和ニュース 昭和8年9月1日号
このように阪和電鉄は、葛葉稲荷駅および信太山駅周辺を大阪の郊外住宅地および観光地として重視し、その開発にあたったのです。
次回は最終回、南海電鉄による阪和電鉄の合併について紹介します。お楽しみに!
大賀ハス日記6 開花が続いています
シリーズ 「阪和電鉄開通90周年記念 和泉に電車がやってきた」第2回
第2回 和歌山までの全通と経営状況
前回では、阪和電鉄の阪和天王寺から和泉府中までの開通について紹介しました。今回は、昭和5年(1930)6月16日の和泉府中から東和歌山(現在のJR和歌山)までの開通と、経営状況について紹介します。
今日6月16日は、今から90年前に阪和電鉄が天王寺から東和歌山まで全通した記念すべき日です。阪和電鉄全線開通90周年です。
阪和電鉄は天王寺から和泉府中間と、途中の鳳から分かれて阪和浜寺の区間を昭和4年(1929)7月18日に開業させます。翌年6月16日、今から90年前の今日、和泉府中から東和歌山の区間を開通させました。これにより天王寺から東和歌山までの全線が開通しました。
当初は左側のポスターでわかる通り、天王寺から東和歌山までは急行電車で65分、運賃は96銭でした。昭和5年(1930)10月には急行が55分に、昭和6年(1931)7月には特急が新設されて天王寺東和歌山間途中無停車で48分に、それぞれスピードアップします。そして3年後右側の時刻表の表紙では、同区間が45分とさらにスピードアップされると共に特急が超特急と改称されました。このスピードは戦前の日本の私鉄の中では最速の部類です。阪和電鉄が速達性を重視したのは岸和田や貝塚など泉州地域の中小都市の市街地近くを通り、途中駅からでもある程度集客できていた南海鉄道にスピードで対抗する必要性があったからです。
しかし、最初は経営状況があまり良くありませんでした。
経営状況を改善させるために阪和電鉄は沿線への誘客と沿線開発に力を入れることになります。
左側の図は桃の花見のチラシで、和歌山城と黒鳥山、久米田池が出てきます。電車に乗って行楽に出かけるという文化が定着したのも昭和の初めごろです。右側2つの図は昭和10年(1935)に阪和電鉄が発行した砂川遊園のパンフレットです。この公園は現在の和泉砂川駅の近くにあった広大な公園です。グラウンドや展望台、遊戯場など多くの施設が園内にあったことがわかります。
阪和電鉄は沿線の住宅開発も行いました。上野芝駅の近くに霞ヶ丘と向ヶ丘の住宅地を開発します。向ヶ丘の住宅地の広告には、健康的で、衛生的で、交通の便が良く、割安だとアピールしています。当時大阪市内は「大大阪」といわれ発展していましたが、工場の煤煙による公害や人口集中による都市問題の発生など、多くの課題を抱えていました。大阪市内に集中した人口を緩和させるため、阪和を含めた在阪鉄道会社は沿線に住宅地を開発し、誘客活動を行っています。
阪和電鉄は沿線開発や合理化などで経営状況の改善に成功し、昭和15年(1940)に南海電鉄に合併される頃には、株主に配当を出すこともできるようになっていました。
次回は、阪和電鉄による信太山地域の開発と、葛葉稲荷駅(現在の北信太駅)の開業について紹介します。お楽しみに!
シリーズ「阪和電鉄開通90周年記念 和泉に電車がやってきた」 第1回
第1回 阪和電鉄の設立と天王寺~和泉府中間の開通
今年6月、和泉市北部を走るJR阪和線は全線開通から90周年を迎えます。そこで、昨年開催したふるさと館の特別展「阪和電鉄90周年記念 和泉に電車がやってきた」の資料を基に現在のJR阪和線を建設、運営していた阪和電鉄の歴史と現在の和泉市域を中心とした沿線開発について紹介します。
大正時代、現在の和泉市域には鉄道はありませんでした。南海鉄道が難波から和歌山市の間を明治36年(1903)に開通させますが、カーブの多い海沿いのルートをとっていました。そんな中、大正8年(1919)に、泉州地域の交通網の拡充と、陸軍第四師団駐屯地のあった伯太村への交通網の構築などを理由に、大阪から和歌山までの電気鉄道敷設計画が大阪財界や宇治川電気(現在の関西電力)などによって国に提出されます。国は日露戦争後の鉄道国有化の際に南海鉄道の国有化に失敗したことと、折しも国鉄紀勢線の建設工事が進行していたためこれに接続することを条件に大正12年(1923)7月10日、認可します。南海と競合することから直線主体のルートと架線電圧も関西圏ではまだ珍しかった高速走行向けの直流1500V(ボルト)電化にし、府県境の雄(お)ノ山(のやま)峠(とうげ)に長いトンネルを掘るなど大阪と和歌山を高速で結ぶために多くの工夫を施します。
阪和電鉄は工事の進んだ区間から開業することになります。昭和4年(1929)7月18日、阪和天王寺(現在の天王寺)から和泉府中までの本線と、鳳から阪和浜寺(現在の東羽衣)までを開業させます。ここで、当時のパンフレットを紹介します。
このパンフレットは、阪和電鉄の阪和天王寺から和泉府中、浜寺開業時に出されたものです。高架線を走る真新しい電車が描かれています。
阪和電鉄の和泉府中までの開通により、現在の和泉市域に電車が走るようになります。他地域に比べ大幅に遅れましたが、和泉における鉄道時代の幕が上がりました。
この沿線案内は、阪和電鉄開業時に出たものです。信太山ももちろん出てきます。開業時に設置された駅は、本線が阪和天王寺、南田辺、臨南寺(現在の長居)、杉本町、仁徳御陵前、(現在の百舌鳥)、上野芝、鳳、信太山、和泉府中、そして途中の鳳から分岐して阪和浜寺(現在の東羽衣)です。各駅停車のみの運転で、天王寺から和泉府中間は約30分、運賃が33銭でした。7月の海水浴シーズンに開業したことから、天王寺から阪和浜寺には臨時列車が増発されていました。運賃は25銭、所要時間は約24分でした。
なお、開業時には、葛葉稲荷駅(現在の北信太駅)は設置されませんでした。当時の信太村による駅誘致運動については、3回目の連載で紹介します。
次回は、阪和電鉄の和泉府中から和歌山までの開通と、経営状況について紹介します。お楽しみに!