2020年7月
大賀ハス日記7 開花の時期が終わりました
7月14日のお昼前、最後の花が散りました。6月11日に開花がはじまり、次々と花芽を上げて約一ヶ月間、私たちを楽しませてくれました。
※ まだこれからも花芽が上がってくる可能性はあります。
撮影 :7月12日 9時41分
よくハスの花の寿命は3~4日で散ると聞きます。今回、池上曽根史跡公園で開花した花の中で早いものは2日。長いもので5日目に散ったものもありました。
そこで、7月8日に開花した花が散るまで時間を追って撮影をしてみました。
開花初日は小雨が降ったり止んだりの一日で、雨の止み間にハチやハナアブの仲間が花に集まってきました。夕方には、花弁は閉じられていました。
開花二日目は午前中を中心にやや強い雨が降り、午後には時折小雨が降る一日になりました。花弁は夕方になっても大きな開閉運動はせずに開いたままでした。
開花三日目は早朝から強い雨が断続的に降り続いていて、午前中に散りました。この花は開花から三日目で散ったのですが、花の寿命や開閉運動は、天候や受粉の状態に左右されるのかも知れません。
※ 実生は行わないため、花の終わった花托は直ちに切ります。
花の時期も終わって梅雨明け間近。次は真夏の日差しをいっぱいに浴びて、力強く伸びる大きな緑の葉っぱも楽しみです。
シリーズ「阪和電鉄開通90周年記念 和泉に電車がやってきた」第4回
第4回 南海鉄道による阪和電鉄の合併(最終回)
前回では、阪和電鉄による信太山地域の開発について紹介しました。今回は最終回で、南海鉄道による阪和電鉄の合併について紹介します。
阪和電鉄は当初こそ赤字に苦しんだものの、沿線開発や合理化で徐々に経営状況が改善し、乗客も増えて株主配当金を出せるまでになります。ですが、徐々に戦争の影が阪和電鉄にも忍び寄ってきます。
昭和12年(1937)7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は長期化し、国家の人的・経済的資源をすべて戦争につぎ込むことが求められました。それに伴い昭和13年(1938)8月に施行された陸上交通統制法により、全国各地で中小鉄道、バス事業者の経営統合が行われるようになります。
阪和電鉄も例外ではなく、昭和15年(1940)7月ごろから競合する南海鉄道への合併が取り沙汰されるようになりました。以下のような当時の新聞記事があります。
大阪朝日新聞 昭和15年7月17日 朝刊
大阪朝日新聞 同日夕刊記事
この2つの記事から、紀勢西線の全通に伴い大阪天王寺から和歌山県の新宮まで直通列車を走らせるために南海と阪和の合併に国が乗り出したことがわかります。また、鉄道省がいずれ阪和電鉄を買収しようとしたが、大蔵省が買収費用を賄うための起債を許可しなかったためできなかったという話も載っています。同じ日の夕刊では、南海と阪和の合併による株式価値について、南海株10株に対し、阪和株8株以上という条件が出てきました。
さらにこの2日後、より詳細な合併条件が新聞記事に出てきます。
大阪朝日新聞 昭和15年 7月19日
これによると、17日の夕刊の記事の通り阪和株10:南海株8の比率で交換すること、南海は阪和株主に120万円の交付金と阪和役員及び従業員に100万円を限度とした解散手当を交付すること、12月1日に両社が合併すること、阪和の従業員は合併に伴うリストラ無く全員現給のまま南海で雇用するという条件が南海と阪和の間で決まりました。
こうして昭和15年12月1日、以下の社告の通り阪和電鉄は南海鉄道に合併され、阪和電鉄の天王寺から東和歌山までは南海山手線と改称されました。戦前日本の私鉄で最速を誇った阪和電鉄の歴史は、こうして幕を閉じました。
大阪朝日新聞 昭和15年12月1日 南海社告
南海山手線となった旧阪和電鉄線ですが、昭和19年(1944)5月1日に国有化され、国鉄阪和線となりました。阪和葛葉駅は南海山手線時代に葛葉稲荷駅に改称されましたが、このときに北信太駅と改められています。
そして昭和62年(1987)4月1日に国鉄は分割民営化され、阪和線はJR西日本の運営に変わり、現在に至ります。
今回で連載を終わりますが、開通から90年が過ぎた阪和線は現在も和泉市民の貴重な交通手段として日々多くの人々を運んでいます。現在の和泉市域の近代化に果たした大きな役割も、見逃してはいけないものがあります。