シリーズ 「阪和電鉄開通90周年記念 和泉に電車がやってきた」第2回

2020/06/16

 

第2回 和歌山までの全通と経営状況

前回では、阪和電鉄の阪和天王寺から和泉府中までの開通について紹介しました。今回は、昭和5年(1930)6月16日の和泉府中から東和歌山(現在のJR和歌山)までの開通と、経営状況について紹介します。

今日6月16日は、今から90年前に阪和電鉄が天王寺から東和歌山まで全通した記念すべき日です。阪和電鉄全線開通90周年です。

阪和電鉄は天王寺から和泉府中間と、途中の鳳から分かれて阪和浜寺の区間を昭和4年(1929)7月18日に開業させます。翌年6月16日、今から90年前の今日、和泉府中から東和歌山の区間を開通させました。これにより天王寺から東和歌山までの全線が開通しました。

      

当初は左側のポスターでわかる通り、天王寺から東和歌山までは急行電車で65分、運賃は96銭でした。昭和5年(1930)10月には急行が55分に、昭和6年(1931)7月には特急が新設されて天王寺東和歌山間途中無停車で48分に、それぞれスピードアップします。そして3年後右側の時刻表の表紙では、同区間が45分とさらにスピードアップされると共に特急が超特急と改称されました。このスピードは戦前の日本の私鉄の中では最速の部類です。阪和電鉄が速達性を重視したのは岸和田や貝塚など泉州地域の中小都市の市街地近くを通り、途中駅からでもある程度集客できていた南海鉄道にスピードで対抗する必要性があったからです。

しかし、最初は経営状況があまり良くありませんでした。

経営状況を改善させるために阪和電鉄は沿線への誘客と沿線開発に力を入れることになります。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左側の図は桃の花見のチラシで、和歌山城と黒鳥山、久米田池が出てきます。電車に乗って行楽に出かけるという文化が定着したのも昭和の初めごろです。右側2つの図は昭和10年(1935)に阪和電鉄が発行した砂川遊園のパンフレットです。この公園は現在の和泉砂川駅の近くにあった広大な公園です。グラウンドや展望台、遊戯場など多くの施設が園内にあったことがわかります。

 

 

 

阪和電鉄は沿線の住宅開発も行いました。上野芝駅の近くに霞ヶ丘と向ヶ丘の住宅地を開発します。向ヶ丘の住宅地の広告には、健康的で、衛生的で、交通の便が良く、割安だとアピールしています。当時大阪市内は「大大阪」といわれ発展していましたが、工場の煤煙による公害や人口集中による都市問題の発生など、多くの課題を抱えていました。大阪市内に集中した人口を緩和させるため、阪和を含めた在阪鉄道会社は沿線に住宅地を開発し、誘客活動を行っています。

阪和電鉄は沿線開発や合理化などで経営状況の改善に成功し、昭和15年(1940)に南海電鉄に合併される頃には、株主に配当を出すこともできるようになっていました。

次回は、阪和電鉄による信太山地域の開発と、葛葉稲荷駅(現在の北信太駅)の開業について紹介します。お楽しみに!

和泉市文化財活性化推進実行委員会ブログ